2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位
授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」
授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」
第三回、四回講義(2006年10月31日、11月7日)
<先週の講義の補足>
■我々の行為が自然法則に支配されていないことの証明
もし自然の中に自然法則に支配されていない現象があるとすると、その現象を利用して、我々は我々の行為ないし意志が自然法則に支配されていないことを証明することが出来る。
例えば、量子力学の言うように、スリットを通った一個の電子が写真乾板のどこに到達するかが、統計的にしか推定できないのだとすると、どこに到達するかは、自然法則で決定できないと言うことである。もしスリットの右側に到達するれば、右手を挙げ、左手に到達すれば、左手を上げることに決めると、我々は実験をして決めた仕方で手を上げることが出来るだろう。もしこれが可能だとすると、我々が手を上げる行為は、上の実験の電子の振る舞いと同じく、自然法則には支配されていないということが証明される。
■しかし、このことは、我々の行為が自然現象に規定されていることと両立する
自然現象が未知の因果法則に支配されているとき、我々の行為もまたその未知の因果法則に支配されている可能性は残る。
自然現象の因果法則は、統計的なものであって、自然現象には偶然性があるとするとき、偶然的な自然現象によって意志が常に一方的に規定されている可能性がある。あるいは、意志は偶然的な自然現象の随伴現象supervenient phenomenonであるかもしれない。
■時間空間が直観の形式であるとカントが主張する理由
(可想界に時間がないとすると、可想的原因性は、時間関係を持たなくなる。これに違和感をもった学生の質問がありましたので、とりあえず、カントが時間空間を直観の形式だと考えた理由を説明します。これは、重要な面白い問題ですが、本講義の主題から外れて行きそうなので、これだけにします。)
・空間時間が物自体の世界に成立するのだとすると、幾何学は経験的な学問になり、普遍妥当性を主張しえなくなる。
・算術は数える行為に基づいているので、時間が物自体に属するのだとすると、算術もまた経験的な学問になり、普遍妥当性を主張しえなくなる。
・自然科学の形而上学的な基礎についても同様に、アプリオリな命題でなく、経験的な命題になる。
・要するに、時間と空間が対象の性質や関係として実在するのだとすると、それについての認識は経験的な認識になり、全ての経験的認識と同じく、アプリオリな認識、つまり厳密な必然性と普遍性を持つ認識にはなりえない。しかし、それは幾何学や算術や自然学の基礎がアプリオリな認識であるという事実と矛盾する。ゆえに、時間空間は、実在するのではなくて、直観の形式である。以上の推論の前提は、今日では維持不可能です。つまり、<幾何学、算術、自然学基礎がアプリオリな認識である>とはもはや信じられていません。すくなくともそれは議論の対象になっています。
<閑話休題>
先週述べたように、可想的原因性が、自由の原因性であり、感性的原因性が、自然法則の原因性であるとしよう。そうすると確かに、この二つは両立可能であるかもしれない。もちろん、カントは第一批判では、これらが両立可能であるというだけであって、自由の因果性の存在を主張しているのではない。
さて、このカントの両立論が説得力を持つためには、可想的原因性としての意志の自由の説明が説得的でなければならない。そこで次に意志の自由について検討しよう。
§3 カントの格率に関するテーゼ
カントは格率(Maxime)に関して次のテーゼを認めるだろう。
テーゼ1:<意志決定は、つねに何らかの格率(主観的な意志決定の規則)に基づいて行われる>
この解釈の根拠となるのは、『宗教論』の次の箇所である
「選択意志の自由は、ただ人間がそれを自分の格率のうちに採用した(人間がそれに従って行為しようと意志するところの普遍的規則とされた)かぎりでの動機以外は、いかなる動機によっても行為へと規定されることはありえないという、まったく独自の性質を持っており、そしてそのかぎりにおいてのみ、動機はそれがいかなる動機であろうとも、選択意志の絶対的自発性(自由)と両立しうる」(VI,23f., 訳三九)
(カントがこのようなテーゼを認めることについての、より詳しい論証については、拙著『ドイツ観念論の実践哲学研究』(p.18-20)の参照)。
カントのこの主張は、確率に関する他の議論の結合して論じられており、このテーゼを主張してそれをカントが証明しているわけではない。
そこで、我々は、カントの他の議論から(この解釈の妥当性の証明でなく)、このテーゼの証明を構成することができるかもしれないが、しかし、ここでは、つぎのような一般的なテーゼにして、その証明をカントを離れて試みたい。
テーゼ2「我々が、意志決定をするときには、その背後に一般的な規則がある」
証明:意志決定は、二通りに分けられるので、それを分けて証明しよう。
(1)意志決定が、「・・・すべきだ」という判断に基づいている場合。
我々が、U1「・・・べきだ」と判断するときには、その背後には、法則があるはずである。それは、「べきだ」という語の意味から、帰結する。この法則は、「・・・ならば・・・すべきだ」という形式をとるだろう。
<証明>ある状況Xで「Aをなすべきだ」、と判断した者は、それと非常ににた状況X’でも、「Aと非常によく似たA'をなすべきだ」と判断するであろう。もし、そのように判断しないのであれば、彼は如何なる根拠にもとづいて、上のように判断したのか、理解できないことになるだろう。
「・・・すべきだ」と判断するときには、根拠をもっているはずである。だとすれば、その根拠と非常によく似た事情がある時には、おなじような判断が帰結するはずである。
事実に関する因果関係の場合には、「・・・の状況では・・・となるはずだ」という形式の判断、あるいは、「・・・であるから、・・・となる」という判断の場合も同様である。
(参照:ダント『物語としての歴史』、ヘンペルのcovering law model の議論)
(2)意志決定が、不決定の決定である場合。
我々が、意志決定をするとき、AとBとの選択で、Aを選択するときに、「Aを選択すべきだ」と考えて選択したのではなくて、AとBがまったく同じ条件であるにもかかららず、一方を(いわば心の中でサイコロをふるようにして)偶然的に選択したのだとしよう。このような場合、偶然的な選択の背後には、選択しないことよりどちらにしろ選択した方がよいという判断があるはずである。つまり、「・・・べきだ」という判断である。なぜなら、もしそのような判断がなければ、彼はそもそも選択しなかっただろうからである。我々は何の必要もないところで決断したりはしない。そうすると、このばあいにも、上の(1)と同じように、背後には一般的な法則があることになる。
<テーゼ1から意志決定のアポリアが生じる>
(1)意志決定が、「・・・すべきだ」という判断に基づいているとき
・我々が、U1「・・・べきだ」と判断するときには、その背後には、法則がある はずである。それは、「べきだ」という語の意味から、帰結する。
この法則は、「・・・ならば・・・すべきだ」という形式をとるだろう。
・この法則をいまR1とすると、U2「R1を採用すべきだ」と判断するのでなければ、我々は、R1の適用結果としての、U1を主張することは、できないだろう。
・上の二つが言えるならば、U2を主張するときには、その背後に法則があることになる。これは無限に反復する。
(2)意志決定が、不決定の決定であるとき。
・我々が、意志決定をするとき、AとBとの選択で、Aを選択するときに、それがまったく同じ条件であるにもかかららず、一方を偶然的に選択したのだとすれば、そのような偶然的な選択の背後には、選択しないことよりどちらにしろ選択した方がよいという判断があるはずである。つまり、「・・・べきだ」という判断である。そうすると、上と同じ無限反復が生じる。
さて、同様のアポリアは、カントの格率のテーゼからも生じるはずである。
§4 カントの格率論のアポリア
上のテーゼ1をみとめると、そこからから次のアポリアが生じる。
アポリア1:<意志決定のためには、格率が必要であり、その格率の採用の意志決定
には、さらに別の格率が必要であり、・・・・・・という無限遡行が生じる。
それゆえに、意志決定の成立が説明不可能になる。>
このアポリアをカントが明確に述べているのは、『宗教論』の中の次の注である。
「道徳的格率の採用の最初の主観的根拠は、見極めがたいものである。このことは、すでに、次のことからあらかじめ見てとることができるだろう。(私が、たとえば、なぜ悪い格率を採用したのか、またむしろ、なぜ善い格率を採用しなかったのかという)採用の根拠は、自然の衝動の中にではなくて、むしろ常にまた、ある格率の中に求められなければならない。そしてまた、この格率も同様にその根拠を持たなければならない。しかし、格率以外から、自由な選択意志の規定根拠をあげるべきではないし、またできもしない。ひとは、主観的規定根拠の系列を無限にどこまでも遡り、その最初の根拠にたどりつくことはできないのである。」(VI,21, 訳三七)
ここでは、格率の採用の根拠となる格率の採用を繰り返して無限に遡行してしまうために、最初の根拠に到達できないことが、明言されている。では、最初の究極の根拠まで遡ることが不可能であるとしても、できるかぎりこのように遡り続けようとすると、どうなるのだろうか。
カントは、この点について、我々が「(道徳法則に関して、このあるいはあの格率を採用する主観的な最初の根拠としての)善あるいは悪」は、「出生にまで遡る最幼少期」に求めることができるということ、また、それは「出生と同時に人間の中に存在するように表象されるが、しかし、出生がその原因なのではない。」と述べている。また「我々の格率の採用の最初の根拠は、経験の中で与えられるような事実ではありえない」と明言されている(Vgl.VI,22, 訳三七)
つまり、格率の採用の根拠を遡って行くと、経験的には出生の時期近くまで行くが、しかし、それはあくまでも「主観的な」最初の根拠であって、その背後には、さらに根拠があるはずである。なぜなら、そうでないとすれば、出生時の出来事が格率採用の根拠であることになってしまい、格率採用に関してその人に責任を問うことができなくなり、彼の意志決定について、そもそも善悪を言うことができなくなるからである。このことを、別の箇所では、次のように述べている。
「ある心情(Gesinnung)もしくは他の心情を生得的性質として生来所有しているということは、この心情が、それを持っている人間によって獲得されたのではないということ、つまり彼がその心情の創始者ではないということを、意味しているのではない。むしろ、この心情が、時間の中で獲得されたのではないということを意味しているのである。・・・・・・・・・・・・心情、つまり格率採用の最初の主観的根拠は、ただ一つのものでしかありえず、それは自由の使用全体に普遍的に関係する。しかし、この心情それ自身もまた、自由な選択意志によっても採用されたのでなければならない。というのは、さもなければこの心情に責任が帰せられることはできないであろうから。ところで、この心情の採用について、さらにその主観的根拠ないしは原因が、認識されることはできない。(たとえそれを問うことが不可避であるとしても。なぜなら、認識されるとすれば、この心情がそれによって採用される格率が再び挙げられねばならないからである。そして、この格率はさらにその根拠をもたねばならない。)従って、我々はこの心情を、あるいは、この心情の最高の根拠を、選択意志の何らかの最初の時間的な行動(Zeit-Actus)から導出することはできないから、我々はこの心情を、選択意志に生まれつき属する性質(Beschaffenheit)と呼ぶのである(実際には、この心情は自由の中に根拠をもつのであるが)。」(VI,25, 訳四二)
我々は、主観的には生まれつき持っているように思われる「心情」にまでしか遡ることができないだろう。では、その「心情」の根拠とは、何だろうか。道徳の可能性の条件を問い求めようとするならば、カントも述べているように、この根拠を「問うことが不可避」であるだろう。この根拠をさらに問おうとするとき、その根拠は経験を超えた叡知界に求めなければならない。時間を越えた、「心情の最高の根拠」は、『純粋理性批判』で述べられている叡知界での「可想的原因」であると思われる。(3)
では、「可想的原因」という概念を持ち出すことによって、上のアポリアが解決されるのだろうか。残念ながら、そうではないだろう。なぜなら、叡知界における最初の格率の選
択が認識されないとしても、それは行われたはずである。さもなければ、人はその格率に従った意志決定について、道徳的な責任がないことになるからである。ところで、そのような選択が叡知界で行われたのだとすれば、たとえ認識され得ないとしても、その選択を決定した根拠としての格率がさらにあるはずである。こうして、叡知界での格率の選択は、認識できないにせよ、またしても無限背進することになる。